2013年3月11日、午後2時46分
東日本大震災から丁度2年目の その時・・・・・
健康寺子屋の本拠地となっている 東京新宿区四谷の「笹寺」にて
東日本大震災の犠牲者の方々に対して お経をあげて頂きました。
「東日本大震災健康支援プロジェクト”こころとからだの健やかのために”」の代表である三屋裕子氏も 今年は仕事のために 現地に入ることができず、笹寺の本堂にて 全ての地区の犠牲者の慰霊をさせていただきました。
昨日の強風と黄砂が攻めてきたのか?と思う程
東京が一寸先が見えなくなった悪天候に比べて
風ひとつなく、明るく 穏やかな春の陽射しを受けて、
犠牲になった方々への 日本全国からの慰霊の気持ちが通じたのか?と
思うようなひと時でした。
笹寺の名称の元になっている笹も明るく輝いていました。
大きな観音様に見守られる笹寺の境内。
2011年3月11日24時46分は
三屋裕子のオフィスには 社員と健康寺子屋の講師陣が集まり
ミーティングの直前でした。
ぐらっ! グラグラ・・・・
若い社員が「あっ!」っと声を上げる中
「大丈夫。大丈夫」とベテラン陣が声をかけるも束の間・・・・
あっと言う間に 本棚の本が滑り落ち、ガラガラという音が拡がり、
オフィスから見える、この穏やかな観音様が音を立てて揺れ始めたのでした。
幸いにも大きな被害は無かったものの、そこからが全ての始まり。
東京中がパニックになり
コンビニが空になり
・・・・
それでも その時は 揺れが止まっただけで 安堵していたのです。
それから 事態の大きさ、 被害の酷さが 刻一刻と知らされて
仕事は勿論のこと 生活の全てがピタリと止まった日々。
「何かしなければ・・・」「何かできることを・・・」
その思いが大きくなり、三屋(328)の日に 当プロジェクトは正式発足しました。
「避難所で動かないことによるエコノミー症候群予防やメンタルケアになるように
体を動かすことをお手伝いしよう!」三屋裕子氏の呼びかけでしたが
東北に本拠地もなければ、東北出身者も居ないメンバーで支援活動をするということは
思う以上に難しいことでした。
どこに行けば良いのか? おそらく 三屋氏が東北出身であったら、同級生や知人を尋ねることもできたでしょう。
「行きます!」と言えば、「来て下さい」と言って頂けたことでしょう。
逆に どんなに強い思いがあっても 拠点の無い我々にとっては
「何かできることがあれば・・・」
「バレーをする体育館はありません」
「バレーでは無いんですが・・・・」
そんなやり取りが続く中、高校体育連盟バレーボール専門部の先生方との縁が発端で
郡山北工業高校の体育館に迎え入れて頂けたのです。
それからも 活動の内容を理解して頂いても、それでも話はなかなか進みません。
当時は被災地に激励に行く有名人は多く、その中にかき消されていたのだと思います。
特に避難所時代は、生活空間ですし、皆さんのお気持ちも察して、テレビ取材などを断わってきましたし、 現在でも 三屋氏がこのような活動を続けていることを知る人は一部と察します。
復興支援の顔となっている芸能人や有名人と比べると、百数十回の支援を重ねてきたことは、おそらく誰に知られることも無い 地味な活動の積み重ねでした。
とりわけ静かにじっくり支援活動をしていきたいと思う我々にとって、「知られていない」ということは、
活動をする上では、被災地から支援を求められることの無い、開拓の日々であったと記憶しています。
ただ・・・・「やらない」より「やる」を選んだだけのこと・・・・
でも 今日もお経を終えて「色んなことが次々頭に浮かんできて、・・・」と三屋氏は語っていましたが、おそらく これからも 三屋氏の運転で、健康寺子屋の先生方はじめ 有志メンバーは被災地の皆さんの元気のために 通い続けることになると思います。
「今できることを」
静岡県の少林寺様ご住職 井上貫道老師に書いて頂いた文字を
今でもアシックス様のご提供により ユニホームとして回っています。
ただ 拠点の無い我々の活動です。
「現地に活動を残す時代の到来」と言われる中、
何が残せるのか?課題満載です。
でも 皆さんの笑顔づくりのために、次の週末も福島県に向かいます。
皆様の満面の笑みのために
皆様の心からの元気のために
これからも 当プロジェクトは、とびきりの笑顔と元気で被災地に伺います。
皆様との復興への道はこれからが始まりです。
震災の犠牲者となった方々への慰霊を込めて
四谷笹寺から 被災3県の皆様に 祈りを捧げます。
東日本大震災健康支援プロジェクト 事務局