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2013年4月 3日 (水)

プロジェクト3年目突入

2013年3月28日、東日本大震災健康支援プロジェクト”こころとからだの健やかのために”は発起3年目を迎えました。  

2011年3月11日、健康寺子屋の四谷クラスを終えて、正に3時からミーティングを開催しようと思っていた時、株式会社サイファは大きな揺れを感じ、

 それから・・・・

 思えば しばらくは非日常の中に在ったような気がします。

 オイルショック並みのトイレットペーパー不足。

 水・ガソリン・・・ 生活の必需品が断たれた日々。

 そんな中、東日本大震災支援全国ネットワークが立ちあがると聞き及び、NPO法人健康寺子屋としてだけでなく、東日本大震災健康支援プロジェクトという別途支援団体を立ち上げて、ボランティアに素人ながら 会議に参加しました。

ボランティア活動は元より、被災地支援のノウハウが全く無い素人集団が、ボランティア活動のプロ集団の始動に 全く付いていくことなどは不可能でした。

見れば そこに参加する多くの人たちは 初ボランティアなどというはずもなく、過去の震災の経験を活かして、積極的に支援活動をスタート。

ノウハウもネットワークも既にある団体に比べて、いかに脆弱であるか?

事務局の代表として 会合に参加をしながら、 緊張で体を震えるような思いすらありました。

(こんなところに居て良いのかしら?)

 (まだ 何もできていないのに・・・)

官庁街のビルの一室で開催された会議であることが、一層重い気持ちにさせました。

 日本の一大事。

 緊急事態において、 何かやらなければ・・・・

 「できる」とか「できない」とか・・・

 ましてや

 「やる」とか「やらない」とか・・・

 そんな事態で無い空気の中に飲まれて、映画でしか見たことのない光景の中で、強い思いを持ち返ったことだけは薄らと覚えています。

 おそらく司令官気取りで、小さな事務所の中で 大声を張り上げていたような気がします。少しでも尻ごみをしそうな人に、檄を飛ばしていたような気がします。

 ”爆走”という言葉がそのままあてはまる状況でした。

 支援活動を始めてからも、「なぜ何事も無かったかのように感じていないのだろう?」と他人を思うこともしばしばありました。

 でも それは逆もあったことと 今だから分かります。一つでも知っている人と知らない人には 自然と開きができるものです。

 私がプロジェクトを代表して 一番先に 災害対策の輪の中に駆け込んだから見た光景。

 全ての人が 1人残らず緊張と起動体制にある時の 何んとも言えない状況。

 それを見たから、プロジェクトの立ち上げに対して、生後間もない子供の安否に我を忘れた母のように突っ走ったのだと察します。

 そして その結果 準備も整わずに、逸る気持ちで三屋さんを中心に 一台の車を走らせたから・・・・

 いつも 自分たちの足で進み、自分たちの目で見て、何かに守られることなく 現地の方々と出会ったからこそ

 私たちは 当たり前に 震災直後からの被災地に沿う気持ちでいることができました。

 知ったから・・・

 見たから・・・・

 出会ったから・・・・

 当たり前でした。

 丸2年を過ぎて、色々なことを思います。肉体的に疲れなかったか?と言えば、それは 全くウソになります。

 三屋さんの全ての休みもさっさとスケジュールを立てて奪ってしまいました。おそらくこの2年間 土日を休むということは無かっただろうと察します。

でも、 2011年3月三屋さんが「こんな映像を見て、何もやらないなんて・・・そんなこと できないでしょう?」と言って プロジェクトは立ちあがりました。

スローガンとして「今できることを」

これは 三屋さんの言葉から発した ひと言。

早速 静岡県掛川の少林寺様ご住職 井上貫道老師に毛筆で書いて頂きました。

「どれでも お好きな字を選んで下さい」

ご老師は 何枚かの書を見せて下さいました。

「今」という文字が 「できることを」を 力強く懐に抱えた書を三屋さんは直ぐに指しました。

「これがいい」

 今 できることを

”今”を大切に、肩に力を入れ過ぎず、 プロジェクトの発足の意に沿っていきたいと思っています。

  これからも ご支援を宜しくお願い致します

 

                      東日本大震災健康支援プロジェクト

                                  事務局  野中真代